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「掲示板での相談、閲覧・有料メールカウンセリング」の過程では、自我の防衛反応による混乱(興奮)が現れます。精神分析的アプローチによる「自我構造(こころ)の揺れ」です。その点に同意の上入室してください。



382 はじめまして。。 薔薇 Mail address URL 2004/11/26 11:57
kageさん はじめまして。
「精神分析」の検索から此処に辿り着きました。

コンテンツの「気になる・・・」を読ませて頂きPCの前で爆笑しました。
kageさんの語り口調が聞こえてくる様でした。
思いっきり笑えたら、ここに書込をさせて頂く決心がつきました。

私はネットを始めてもうすぐ二年になります。
主人の自営の会社のHPを作る事がきっかけで、自分のHPも作りました。
その宣伝も兼ねて チャットをはじめました。
家に篭りがちだった事もあり、チャットは生活の一部にまでなりました。
性別に関係なく幅広い年齢層の方と出会えるのはネットならではだと思っています。
いろんな人と出会い、話、時には恋愛の話を聞き自分の感じたことを伝える。
言葉の怖さも改めて実感している毎日です。

画面に打ち出される活字に一喜一憂して感情を取り乱して私生活に支障をきたしていました。
今は、自分にとって何が一番大事なのか、自分を取り巻く環境、性格、
これを心に浮かべる事で激情をコントロールしています。
取り乱す原因ははっきりしているのに、それを断ち切る事も出来ず
すべてのバランスを保っています。保っている筈です。いやそうありたいのかも。

「気になる・・・」を読ませて頂いてkageさんとお話してみたいと思い
書込させて頂いたのに、文章がまとまらずにすいません。

383 Re:こちらこそ kage 2004/11/26 17:56
どうもです、

ネットを介してのコミュニケーションには独特な意味があります(私がこのサイトを運営している根拠のひとつでもあるのですが)、

『対人関係における緊張感が少なく、言葉として取り込まれた相手の発言は、一定の条件の元に自身の独白に近い認識になるため、自由連想による精神分析の構造と、そのまんんま似ている』

特にボーダーライン等のケースに見られる「必要以上の自制(これは両刃の剣で、閉塞感と同時に自分自身の感情を抑えてもいるのです)」が仮想的に外れますから、「ノーガードになりやすく、同時に開放感もある」のです。

つまり、ネットの世界でのコミュニケーションは「共同幻想的な手続き下の友人関係特有の息苦しさ」がありません。ですから、自我防衛として機能している「必要以上の自制(=過剰防衛=この根拠は通常「マナー」や「人付き合いのルール」の様に認識されているので、自分自身には「構えすぎかなぁ」と認識される事はありません。あり得るのは「緊張しているのを感ずかれると恥ずかしい」や「他所他所しさがバレて嫌われたら、、」とか漠と「嫌われないか不安」として感じられます)」が効きにくいので、感情的になりやすいのです。

言い換えると、無意識的な欲求が未処理のまま激情として(衝動化)自我のキャパを超えるように表に出ます。ここで、その心象風景を現実と誤認すると、話している相手に強い憎しみや、本質的な嫌悪(=自身の背景事情の厄介な部分の投影)に繋がる事も多いので、『自分を取り巻く環境、性格、これを心に浮かべる』という考え方はとても理にかなっています。

いうなら「話し相手が、独り芝居のシナリオを書いている」雰囲気で、この芝居への役者としての感情移入が過ぎると、芝居ではなくその状況を「現実的」だと思ってしまうってワケです。

■バランスを保つ行為の中に自分自身のやっかいな背景を、ピースに再編成する鍵が必ず含まれます。「何故怒っているのか?」「相手の言わんとしているどの部分の動機(話し相手の無意識の本音)は何か?」
つまるところ「いったいなんの話してんだろう?」です。

丸く治めるというより、スッキリ整理して(それが不快である可能性もあります)「現実はこうだろう」と思った時こそ、それは『あなたの考え』なんです、直線的に感じた気持ちは無意識的反動だからです。
遠慮や配慮が、せっかくの話を軽薄なもに堕してしまう時もあります。
根性論じゃないですが、タフじゃないといられないケースになる可能性も高いのです、全部が全部「考えを言ってみよう」ってな話じゃないんのですが、

この「何を話したかったのか」こそ、あなた自身の現実なのだと、俺は思います。
385 こんばんは。。 薔薇 2004/11/28 00:34
レスありがとうございます。

幼少の頃の満たされなかった想いが、成人になって何かの出来事で
無意識に思い出される。
父親に対しての甘えたいという思いを満たされず、抑え込んだまま成人になり、
それを異性に求めてしまう。それが必要以上の執着になる。
このような幼少の頃の記憶は成人になってからも関係するのでしょうか。。
kageさんがおっしゃる、
「無意識的な欲求が未処理のまま激情として(衝動化)自我のキャパを超えるように表に出ます。」
これに当てはまるのでしょうか。。

ネット恋愛の相手を活字だけで二年も想っています。
言葉でどんなに傷つけられても離れずにいます。
飴と鞭。まさしくそんな恋愛です。
虐待をされながらも、親を想う子供のように自分がだぶる事があります。

義父が突然三歳の私の父になった時はかなりの葛藤があったと思います。
どう接していいか分からなかったはずです。生まれた時から傍にいた分けじゃないんですから。。
どんなにそっけなくされても、父の微笑みが見たくて。

そんな記憶が今の恋愛に重なってしまってるのでしょうか。

相手は活字だけの付き合いを強く望んでいます。
自分の容姿に自身がない、私を傷つけたくない。これが理由です。
それでも必要以上に私に執着してるように思えるんです。
そんな彼の事も気になっています。

まずは、自分の心の謎を解きたくています。
386 ちょっと長いですよ、 kage 2004/11/28 03:20
さて段階を踏んで話を進めましょう

前提条件から話します、環境と考えてもいいでしょう。
意識的に「理解できる」とか「共感」とか「同意できる」とかそういう話で捕らえないように聞いてください。
棒読みするように「ひとまず読んでみる」ぐらいで丁度いいです。

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先ず、子供は好きで親に依存しているのではありません。それは「大事な事なので意識されている」のであって、『この理由を自我は知る必要がありません』。野獣ですら幼児期には親と仲良くしてますが、これは一時的なもので、1年もして成獣となれば、立派な成獣であるのが自然であって、幼児期の振る舞いは消えます。母性本能(同様の現象は人間にはありません)として知られている現象は、「丸くて小さい」対象に反応するホルモンや脳内物質の関係であり、鳥の雛が巣の中で見せる行動を見ればわかるように『この時代(雛の時代)の生存競争』であって、幼児においてもこの脳内物質が関係しています。

これは循環であり、相互にバランスの取れた種の保存の仕組みです。

自我にはこれを(筋肉の自立神経を感情的に捕らえる人がいないのと同じに)認識しません、自我にとって知るべきことは「何をするべきか」を刺激するストレスであり、仕事は「何によって解消するのか」という『判断です』。

「幼児の私は何故この人物の世話になるのか?」
もし、こんな不安感を持ったら、日常生活にさえ支障をきたします。渡り鳥が「何故南に行くのか」と考えないのと同じです。複雑なロジックで(かなりストーリーに近い)これを、思考という形で保たなければならない自我にとって(本能の赴くままという「直線的でダイレクトな選択では人類は滅亡する種でしたから」)なんらかの解釈が必要ですし、『なんらかの解釈』を周辺も積極的に刷り込み(教え)ます。

しかしこれもおかしな話なんです。

孤児院や、養子、中国残留孤児、、。人は極めて他人に対して何らかの形で関わるのであり、「他人なので見て見ぬフリ」という言葉の背理は、「そこに不快感が伴う事」を示していて「明解な自分という枠組みを認識しない」自我には、「人事ではない」の で は な く 「明快に自分と他人の利害の差が認識されない」のです。

何故かというと、自我の成り立ちが関わっています。
誕生の瞬間からの記憶が無いように、記憶と言葉の組み合わせである「自我や認識」は『後発的なもので』客観的にこれを観察するなら、自我とは自分に雇われた「判断担当者」であり、『エージェント』です。
おわかりでしょうか?
あなたがエージェントだとします。自分の雇用者ではない人物でも同じクライアントのさる人物に何かを相談されたら?エージェントの血が騒ぐでしょう。
「人の身になって考える」のではなく「人(自分)の身になって考えるのが商売の自我にとって、赤の他人は人事では無い(言葉は壊れていますが、ニュアンスだけ感じ取ってください)」

「親子だから」このアイデアは何の為に必要となるのでしょうか?
直線的には「このまま世話になり続けられるものだろうか?」等の不安をそもそも最初から自分に感じさせないトリックのようなものなんですが、同時に自分自身に子供らしい振る舞いを触発する号令でもあります。生存に関わるからであり、自我には言葉にならないモチベーションがストレスとして最初に知覚されているのであり、言葉の流れは「後付けに解釈されたロジック」なのです。

さて、大問題があります。
どう考えても「このままでは安心して生存できるのか心配だ」という事に気がついてしまった場合「親子だから」では不安を無意識においやる説得力がまるでありません。自我は継続的に「解釈(解決)不能の不安感」を持ち続けます、これはこれで「個別に解釈しないと夜も眠れません」何故なら自我はその解決策を考えるのが自身のレーゾンテートルだからです。

「愛されていないのじゃないかしら?」

完全にテーマが現実から外れているのがわかるでしょう、問題は全く違ったところにあるからです。

「お前大丈夫かオイ、おちおちガキのフリしてられないじゃねーか、それはルール違反。困るだろう、そう思わない?俺的にはどうしようもないだろうよ。まさか俺が働いてお前に説教するワケにもいかんのだし、そんな事になったら、もっと困るだろお前。で、どーすんの、何があったんだ、この際だ腹割って話し合おうや、だいたいがよそっちだけの問題じゃないんだってば、子役の役作りどこじゃないだろ、こっちもよー。そんぐらいわからんのかなー。ま、気を鎮めてだここに座れや」

これが一番ありそうな対処でしょうが、これを親子の会話で話せって言っても幼児の自我にとってそれは荷が重過ぎます。

そこで
「愛されていないのじゃないかしら」
これは「親子愛」でも「人道的な判断」でも「疑問」でも「問題意識」でもありません。『妄想(既に現実から離れているから)です』

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異性関係について話しましょう

子供はよく大人の真似をします。
そして実際子供時代に大人に憧れた事の無い人はいないでしょう(ドイツ映画「ブリキの太鼓」はこれに対するアンチテーゼです)。しかし実際大人になってみてどうですか?「人間にとって子供時代とは、不毛で不幸なものだ」と考える人はいません。それどころか「若い人はいいねぇ」「一番楽しいころねぇ」「無邪気でいいわねぇ」なんですかこの台詞は?

フロイドが各方面から誤解され、特に性に厳格なカソリック世界に批判されてしまった説明不足はこの点なのです。

SEXまでするいい大人になっても、子供時代の「快」は色褪せない。

逆算するなら「子供時代の情動には『性的快』に匹敵ないし同格の代謝がある」。言い換えるなら性的快楽が別の形(仮想)でやりとりされているのと“同じ”であり「人間関係なんだから、この『関わる事の快』が関わっていないハズが無い」このモチベーションは形を変えて(潜伏して)「快によって(これもストレスの一種です)自我に刺激を与えている」、フロイドは「幼児の性欲」とそのまんまの表現を使ってしまい自爆しました。

しかし、着眼点はそういう意味であり、幼児に性欲があるとか、、そんな話をしたかったのでは全然無かったのです、、

「逆の誤解があっても全然不思議では無い」
そればかりか「大人なんか嫌いだ」や「大人は汚れている!」や「子供は純粋(素直で欲望が剥き出し)だ」のような60年代のドラマの台詞の意味は?

そうできないだけで、「快においては、大人の性は子供の快に劣る」というアイデアに囚われても何ら不思議ではありません。 な ぜ っ て 自我 の し ご と は 「快の再生産(=繰り返し=反復=食事や睡眠=生活=生きる)」なんですよ。

自我は反抗期によって、「そうできなくなる」のです。
「イヴとの性の戯言で、エデンの園を追放されるアダム」

ここの切り替え(ある意味「追放」)に明解なケジメが無いと、自我は「同じ快を求めます」、労働や人生というライフスタイルへの方向性の回復が中途半端になります。「やりたいことがわからない」という言葉は、この気持ちの表現なのです。

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快の定義

何かこう「何だろう」という獏としたモチベーションの目的を見つけて、これを解決する。例えば
「えっとね、、そうだなー、コロンビアのスプレモ」
その後「当たったな」だと、スッキリしたりほっとしませんか?「失敗したな」だと、イライラして(ストレスが継続して)スッキリしません。「つまらない、おもしろくない」

その反対は旺盛なモチベーションですが、自分で「何がしたいのか」な時には、それは衝動化し、感情レヴェルで先に進みません。確信犯的「気概や甲斐、情熱」にはならないのです。

「何かこう」をどう解決するのか?その解決は何か?それの成功例を過去に求める(再生産)自我にとって「えっとね、、そうだなー」は、一番手の快から順番に選ばれる事になります。

もし、そこに事実ではなく、
「愛されていないのじゃないかしら」が

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うまくいっていない人間関係を、欺瞞的に「〜されなかった」と勘違いしてしまうと(現実は「何々には困ったものだだった」です。年齢や性別、社会的地位に関わらず人間は平等だからです、「同種」と言いかえるほうがわかりやすいかも知れません)
「何か凄く感情的な、、モー、スゴイ何かがあってきっと、、」

恋愛関係として触発される内容は、違った形で認識され「いかにそれっぽくそうなのか」というトリガーによって感情が動き、自我はそれを「恋愛」と認識してしまうという“結果”から逃げられなくなります。

『依存』と呼びます。

一見本人には、不快感があるので「辛い」とか「どうしてこんな」と感じられているので、まさかそれを「快の代謝」と認識するハズがありません。本当に快だなんて言ってるのではなく、自我にはそうならざる負えない『現実認識(現実的)』が定着しているのです。

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話を書き込みへの返信へと戻します。

現実にあった親子関係には直接の関係はありません。『原因』なのです。
それを「そう解釈せざる負えないひとつひとつの誤解の連続が鎖のように、自我の一部が幼児的な代謝に依存してしまっている」のです。これは『所謂妄想なので、現実では無いものに親和性が強く、直接面談するような関係はその温床からの追放を意味するので、自我の利益に反しますから、感情としては「嫌」とキャラクターがつき、自我は後付けでこの理由を探します』
困った人物に好感を持つ事は不自然です。

だからこそ

>相手は活字だけの付き合いを強く望んでいます。
>自分の容姿に自身がない、私を傷つけたくない。これが理由です。
>それでも必要以上に私に執着してるように思えるんです。
>そんな彼の事も気になっています。

こんな違和感を感じるのです。

>言葉でどんなに傷つけられても離れずにいます。
(これは現実ではありません、「不当な発言を、自己の尊厳の下に撤回させる事に成功していなくても」です。自身の名誉を守るのは自我の大事な仕事です、撤回を求めるべきです。)
387 こんばんは。。 薔薇 2004/12/05 03:12
私には、考え込んでしまう癖があり
「理解できる」とか「共感」とか「同意できる」これらを考えていたわけじゃないのですが、
すぐにお返事が出来ませんでした。。

何をしてても頭から離れず疲れるまで考え込んでしまってました。
自分の生い立ちから今に至るまで思い出し
それから、親の事を考えていたような気がします。
19歳の頃からだったと思うんですが、
「もう親のせいにする歳じゃない。これからは私自身なんだ」って強く思いました。

彼の事も考えました。
出会いから今に至るまで。

これらは思い出そうとしてるわけじゃなくて
心から溢れてくるというか・・・。
疲れ切ったところでやっと、今の自分が戻って来ます。

すいません。。続きはまた後ほど書込させて頂きます。

388 Re:続きの前にですね kage 2004/12/05 13:26
>「もう親のせいにする歳じゃない。これからは私自身なんだ」
ここについてコメントしておきます
@これは抑圧です。

ここでの選択は「止む負えず」や「苦渋の選択」等が当てはまります。
スッキリしてない証明です。

そしてそう強く思った「もう親のせいにする歳じゃない」は、キャラクター的には道徳的ジャンルで、この道徳的ジャンルの思考の雛型は親なので、ここで思考はグルッと廻ってループしてしまいます。道徳的判断では構造的に親を論評する事は不可能だからです。(社会的生き様を上位概念とする、思想的道徳は別です)

納得いかない部分は恒常的ストレスとなり、ループします。(場合によると、派生的に発生する別のストレスを呼び込み、そのスケールは肥大します)
この概念はいつも(ストレスを解決するためには、話を現実のテーブルに乗せなければならないので)無意識に、それを表に出す現実モデルを探し続け(投影)、この「現実を対象にしたい」という無意識の“欲求”は、自我には意味不明の「○○欲」と誤解されるため、容易に「恋愛かな?」に結びつくのです。


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